あくる週、新規事業開発室に新たなメンバーがあいさつにやってきた。
「水野美咲と申します。よろしくお願いします」
おとなしそうな顔立ちだが、はきはきとしゃべって感じの良い女性だとあすなは思った。
「水野さんはまだ若い。入社して経理に配属されてまだ3年目だが、新規事業は若い社員が担い手になってほしいという思いであえて抜擢させてもらった。正式な配属は来月になると思うが、みんな仲良くやってくれ」
安田が推薦の経緯を伝えると、あすなが思わず、
「へぇ~、3年目なんですか?その若さでこの部署に来られるなんて、すごいですね!」
と口走る。
「おいおい、それをお前が言うのおかしいだろ…」
いつも通り、新規事業開発室は和気藹々としている。
安田は水野の紹介を終えると、株式会社ビジネス・キューピッドに向かった。
社内勢力の票読みを含め、表立った動きがしにくくなったり、内密な話をしなければならないことが今後増えてくるため、今のうちに社外での打ち合わせをして、いざというときに不審がられないようにしようという計算からだ。
「いや…ナミさんの入れるコーヒーを初めて飲んだが、おいしいな…」
「あっはっは、お前の買う缶コーヒーとはえらい違いだろ?」
軽い雑談を交わしたあと、話はいよいよ本題に入っていく。
「さて、社内の勢力を抱き込んでいく案だが…目に見える反対派はしばらく泳がせることにして、まずは技術系の役員に話を持ち込もう」
「技術本部長…なんて名前だったかな?」
「お前が知らないのに俺が知るはずないだろう。しかし、今回の新規事業は技術部門の協力なしには成功しない。仁義を通すのは早いほうがいいし、アイデアをもらっておけば後々役に立つだろう」
「確かにな…じゃあ、社長を通してお会いいただくようにしよう」
そういうと、安田は自分の手帳にタスクを書き込んだ。
「あとは、社外だな…」
安田が小声で言ったその言葉を日比野が拾う。
「社外で手を組むことになるのは、まずは自動車メーカーになるが…これは技術畑の役員に話を通してから選定したほうがいい気がする」
「うむ…」
「それ以外だと、ODAのカードを持っている外務省とつながる必要がある。途上国に対してスマートシティを売り込むという構想はきっと賛同されるとは思うが、大事なのはそのアイデアを持ち込むとともに候補になりそうな国をリストアップしてもらうことだろうな」
「なるほど…」
「あとは、H社とすでにつながりのある協力会社の中で、該当する国での施工実績がある会社がもし見つかれば盤石なんだが…そうはうまくいかないか」
「……」
安田の手が止まる。
「なんだ、どうかしたか?」
「日比野…うちに戻ってくる気はないか?今じゃなくてもいい、いずれだ」
安田は真剣な顔でそういった。
「なぜそんなことを言う?俺は今十分幸せなんだぜ?それに、今のプロジェクトにしたって、こうやって社外の人間であることを最大限に利用できているじゃないか?」
「確かに、お前が社外の人間だからこそ助けられている部分があるのは認めるよ、でも…」
「…でも、なんだ」
安田は少しためらうようにしながら、答えた。
「東野さんに聞いてしまったんだ。お前が退社した経緯をな」
日比野は少し目をみはるような顔をしたが、何食わぬ顔でコーヒーをすする。
「東野さんはああいう人だ。今ならお前は社内で悪いようにはされないだろう。だったら、戻ってきてもいいじゃないか?」
日比野はしばらく黙って口を開いた。
「安田、俺にはお見通しだぞ」
「…何がだ?」
「俺が復職して、2人そろって取締役になる。いずれお前が社長になった時に『安田派』を作りたいんだろ?」
その言葉が冗談であることに気づくのに、しばらくかかった。
「あっはっはっ、俺の派閥をつくるのか、そりゃ面白いな…まぁ、よかったら頭の片隅にでも置いておいてくれよ」
「ふふっ、どうだかな。…ところで、派閥で思い出したんだが…大阪のことさ」
「大阪、って…山西が根城にしている大阪支社のことか?」
日比野は頷く。
「ああ、足元をすくわれないことばかり考えるのもいいが、敵の足元もよく見たほうがいい気がしてな…社内政治にはもともと興味がないんだが、プロジェクトのためならやむを得ないだろう」
「確かにな…しかし…」
安田は逡巡した。今安田が行けば、山西が警戒するのは確実だ。むろん、日比野を使うわけにもいかない。今回のケースは社内の人間として潜り込まなければ意味がないからだ。考え込む安田に、日比野がポツリと言った。
「…あすなに行かせたら、どうだ?」
「…え、道草か?」
「ああ…あいつならキャリアも浅くて山西も油断するだろう。でも人懐っこいから人脈を作るのは得意だ。…彼女を使いに出してみたらどうだ?東野さんに頼めば何とかなるだろう」
日比野は妙にそわそわしながら、そう言う。しばらく意図をつかみかねていた安田は、やがて「ぷっ」と笑った。
「お前も面白いやつだな…そんなに道草のことがかわいいか」
そのセリフを聞いていたナミも思わず吹き出す。
「そ、そうじゃない!おれはあくまでプロジェクトのために…」
「あははは、いいよ、みなまで言うな。道草に営業の経験を積ませてやる。プロジェクトには腰掛けで残ってもらうことにして、いったん営業本部に籍を移し、大阪に転勤してもらおう…もっとも、本人の意向も聞いてやらんといけないけどな」
安田は笑いながらそう言うと、日比野は「ああ、そうしてくれ」とだけ言って、照れを隠すようにコーヒーをぐいっと飲み干した。
新規事業のプロジェクトは、経営陣からの一応の同意を得られたものの、計画を実行に移す段階に入ったときにどうしても問題が立ちはだかる。特に今回のプロジェクトチームは若手を中心に組成されているため、陣頭指揮をとる際に、実力や人望が足りないようでは計画が頓挫してしまう可能性も捨てきれない。あすなを大阪に派遣することは、確かにチームメンバーの実力を底上げする意味でも非常に意味が大きい。しかし、それ以上に日比野は、ほかでもないあすなにひそかに期待をかけていた。
窓の外をみると、ちょうど飛行機の機影がポツリと空に浮かんでいるのが見えた。
「お前がいれば、H社の風向きも変わるかもしれん。頼んだぞ」
日比野は、飛行機の飛ぶ方向をぼんやりと眺めながら、そう心の中で呟いた。
つづく。
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