日曜日だというのに、株式会社ビジネス・キューピッドの社長室は騒がしかった。
「ねぇ、日比野さん、何かヒント下さいよぉ…」
あすなが日比野に泣きついている。
水曜日からの合宿に向けて、日比野が宿題を出していたのだ。
「モリモリ青果店のときにやったろう、あれと同じだ」
「でも、あんなに小さな八百屋さんとウチみたいな図体の大きな会社じゃ、全然ボリュームが違うじゃないですか…」
「分かってるじゃないか。違うのはボリュームだけだ。難しさは八百屋も大企業もたいして変わらん。だからあとはお前が頑張るだけだ…さぁ、もう帰れ。俺も暇じゃないんだ…おい、ナミ、コーヒーなんか出さないでいい!」
日比野の声を無視するように、ナミは「どうぞ」と微笑みかけて、あすなにコーヒーを置いていった。
「あ、そうだ。『かすみタイムズ』の榎田君が、「MBA(経営学修士)を取るんだ」って頑張ってるらしいわよ。あすなちゃんから今の話をしたら、喜んでいろいろ考えたがるんじゃないかしら?」
「え、榎田くん、MBAをめざしてるの?すごい!」
「かすみタイムズ」は、あすなの後輩だった架純が立ち上げた大学生によるタウン誌で、今は榎田君が編集長を務めている。
「確かに、彼にとっても格好のケーススタディになるかもしれないな。久しぶりに行ってみたらどうだ?」
「うん、行ってみようかなぁ」
「…そうと決まったら、さっさとコーヒーを飲んで出ていけ。俺も仕事があるんだ」
「えっ、ただ追い出したいだけってこと?ひどい!」
そんなやりとりをみて、ナミはくすくす笑っている。
「かすみタイムズ」の売り上げは、併設しているシェアハウス「アンジュ」の運営に充てられている。ここでは経済的な困難を抱える学生が集まっており、タウン誌の編集に携わって運営費を確保しながら、それぞれの得意分野を高め合っているのだった。
榎田君はもともとはカメラ小僧だったのだが、あちこちの商店や地元企業を取材していくうちに経営というものに興味を持ち始めたらしく、初代編集長の架純が卒業したあとも立派にその立場を引き継いで、地域の経済に貢献している…と本人は思っているらしい。
「あすな先輩すごいですね。H社でそんなにカッコいい仕事されてるなんて、思っていませんでした」
榎田君から見れば社会人のあすなはあまりにも大人の存在に見えるらしく、その仕事の内容がたまたま経営っぽいものなので、すっかりあすなを尊敬してしまっている。
「SWOT分析って、知ってる?」
「はい、本を読んで勉強しました。僕なりにいろいろ考えてみても良いですか?」
「もちろん…でも、時間あるの?」
「大丈夫ですよ。ちょうど印刷所に来月号のデータを出し終わったところなんです」
そう言って、2人は「かすみタイムズ」編集室のホワイトボードを使って、あれこれ考え始めた。
S(Strength:強み)とW(Weakness:弱み)はH社内部の事情を理解していない榎田君にはハードルが高いので、主にO(Opportunity:機会)とT(Threat:脅威)について考えることにした。
「うーん、あまりH社に関係ないものも挙がってしまっている気がするな…」
でき上がったホワイトボードを見て、あすなはため息する。しかし榎田君は前向きさを崩さない。大学生の身でありながら企業のプロジェクトに多少なり加わっている満足感がそうさせるのかもしれない。
「先輩、それくらいがちょうど良いんじゃないですか?こういうのって、質より量だと思うんですよ」
「そう?間違ったことばかり並べてたら、意味ないんじゃないかと思うけど…」
「いやいや、将来進むべき道を今考えているのに、間違ったかどうかなんて分かりっこないじゃないですか」
「…そりゃ、そうだけど…」
「それに、これから新しい事業をやろうとしているときなんだし、少しくらい関係ないことが並んでいたほうがヒントになるんじゃないかと思いますけどね…」
榎田君のいうことは、説得力があるように思えた。
「分かった。せっかくだからこのアイデアはまるごと会社に持っていってみるね。ありがとう」
「いえいえ、楽しかったです。ケーキもごちそうになったし」
あすなが持って行ったケーキが、実はナミが買ったものであることは内緒である。
「どう?最近『かすみタイムズ』は順調?」
ケーキをつまみながら、あすなは軽い気持ちで尋ねた。
「うーん、結構大変です。最初のうちは物珍しさで協力してくれていた地元の企業さんも、だんだんいうことが厳しくなってきて。『広告出すんだったら、それなりの効果があるようにしてくれ』って言うんです。でも、こっちも学生がやっているからってクオリティが低いと思われるのは悔しいんで、一人ひとりすごく頑張ってますよ。あ…架純先輩も毎月お給料から少しずつ寄付してくれているんです。自分も社会人になったら、たくさん稼いで寄付できるようになりたくて…だからMBAに興味を持ったんですよね」
明るい榎田君から不意にこぼれた言葉は、どれも想像以上に重みを持ったものだった。あすなは、自分の置かれた境遇がいかに恵まれたものであるか、改めて思い知らされていた。日比野に出会い、H社という大企業に入社してから、自分の仕事に手いっぱいで、後輩たちのことに目を向けていなかったことを、ひそかに恥じた。
「でも、あすな先輩のおかげです。先輩が架純先輩を盛り立ててくれなかったら、『かすみタイムズ』は存在しなかったんですからね。そういう意味でも、ちゃんと伝統を引き継いでいけるように頑張ろうと思います」
「ありがとう…私も、みんなの先輩であることを誇りに頑張る。また、顔出すね」
そう言ってかすみタイムズを後にしたあすなの目から、涙がとめどなくあふれた。
そして、自分も早く一人前になろう、そのためには今度の合宿を絶対に有意義にしようと、あすなは固く心に決めた。
つづく。
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