部屋に戻ると、すでにプロジェクトメンバーは席についていた。
「さて、ではさっそく、一人一人の回答を見せてもらいましょうか」
日比野はナミからメンバーが書いたアンケートの用紙を受け取ると、テーブルの上に並べた。メンバーのアンケート結果を要約すると、以下のとおりだった。
※是非、読者の皆さんも安田の立場に立ってこのアンケートを見てみてほしい。
日比野はアンケートをひととおり読むと、沈思した。そして、安田の顔色をチラっとうかがった。安田は辛抱しきれない様子で
「…俺がしゃべってもいいのか?」
と日比野に尋ねた。「ああ」というと、安田は落胆を抑えきれないように
「これは違うだろう…」
といった。
「お前たちはH社の将来を背負って立とうというメンバーだろう?どいつもこいつも、やりたいことが現状の延長線上にしかないし、会社が置かれている状況を理解できてもいない。あげくには自分の生活のことばかり心配したり…自分で自分を情けないと思わないのか?」
シーンとした空気がミーティングルームを包み込む。その沈黙を
「…でも、」
と打ち破ったのは、あすなだった。
「日比野さんが本音で書けって言ったから、皆そのつもりで書いたんじゃないですか!本当にやりたいことや、本当に気になっていることをありのままに書いてはいけなかったんですか?」
「ぐっ…」
あすなの青臭い反論は、安田を言葉に詰まらせるには十分だった。そして、返す刀に困った安田は、結局日比野にその切っ先を向けた。
「……日比野、いったいどういうつもりでこんなことをしたんだ?」
日比野は、安田の肩をぽんと叩くと、
「この現状をまずは目の当たりにしてほしかったのさ…ほかでもないお前にな」
といった。
「どういうことだ?」
「従業員と経営者の大きな違い…それは、目線だ。何年も先のことを考えなければならない経営者と、日々の仕事をこなしながら次の給料日を待つ従業員は、まったく違う目線を持っている。だから、自分のやりたいことは、自分の手の届く範囲でしか見つけられない。職場を離れることによる不安も、日々の暮らしのことに目が向きがちなんだ。マズローの欲求段階説ってやつさ」
マズローの欲求段階説とは、人間の欲求は5つの段階に分かれるとした考え方である。生命活動を維持したいという生理的欲求から始まり、身の安全に対する欲求、集団に属することへの欲求、その中で認められたいという欲求へと段階が上がり、最後は自己実現の欲求がある。従業員は低位の欲求、つまり生理的欲求や安全の欲求が十分に満たされていると感じない限り、さらに上を欲することはあまりない。
「……しかし、彼らは、」
安田の反論を、日比野は手で制した。
「分かっている。このメンバーは選ばれた4人だと言いたいんだろう?」
「ああ」
「だからこそ、今この状態からしっかりと目線を引き上げるために、安田や俺は力を貸していかなければならない…そのスタートラインを見誤らないでほしいのさ」
そういうと日比野は今度はメンバーたちに向かって、
「よくぞ、正直にアンケートに答えてくださいました。ぜひ、これからもちゃんと本音で話すようにお願いしたい。皆さんの抱いている本音は、何万人といるH社グループの従業員の本音をも代弁しているんです…いいですね」
といった。4人は一様に、うなずいた。
「さあ、それではこれから、新しい事業のアイデアを出していきたいと思います。とはいえ、今日はまだキックオフミーティングの段階なので、アイスブレイクを兼ねて、楽しく取り組んでいただければ、それでOKです…すみませんが、付箋を大量に使いたい」
日比野がそう言うと、あすながさっと立ち上がった。
「わたし、とってきます!」
「ああ、頼む」
あすなが部屋を出ていくのを見届けると、日比野は先ほどのアンケートに視線を落として「ふっ」と笑った。4人のメンバーの中で、あすなの回答は粗削りながらも、ほかのメンバーより高い次元にあったことに、日比野はしっかりと気づいていた。
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