江戸幕府は、箱根や新居(あらい、静岡県湖西市)など街道沿いに多くの関所を設けて「入鉄砲出女(いりでっぽうでおんな)」を取り締まった。
入鉄砲とは、江戸に持ち込まれる鉄砲などの武器類のこと。大名などが江戸で謀反を起こすのを未然に防ごうとしたのだ。
一方、出女とは、江戸から出ていく女性。幕府は大名の正妻を人質として江戸に住まわせていたが、反乱を企む大名は妻子をこっそり江戸から国元に脱出させるはず。だから江戸から出ていく女性たちは関所で厳しくチェックされた。
女性が旅や所用などで江戸から出る場合、女手形と呼ぶ関所手形が必要だった。武家の場合は藩庁が幕府に申請し、その書面に幕府の留守居役が押印して関所手形とした。
だから各関所には、留守居役などの発行者の印影(判鑑)がすべて保管されており、通過の際、女手形の印影と照らし合わせた。印影に擦れやにじみがあると、偽造品ではないかと入念にチェックされた。
碓氷(うすい、群馬県安中市)関所では関所近隣の村々に対し、手形の偽造を防ぐため、旅人に硯箱や筆、紙を貸してはいけないと通達しているほどだ(金井達雄著『中山道碓氷関所の研究 上巻』文献出版)』)。
安永6年(1777)7月7日、江戸から伊豆国君沢郡久蓮村へ向かう幕府の奥坊主・山田長祝の「下女」の女手形が「君沢郡」と書くところ「若沢郡」と記してあった。「君」と「若」を間違えたのである。すると、関所役人がわざわざ集まって相談した上、前例に従って許すことにしている。
女手形には、通過する人数、乗物の有無、出発地と目的地に加え、「右耳後ろの髪の毛の生え際から髪の中にかけてでき物がある」とか「両足の指の股に灸の痕がある少女一人」など、身体的な特徴が記された。
一方、名前や生年は記されておらず、「~の妻」「~の母」「~の娘」といった書き方が一般的だった。女性が差別されていたことがよく分かる。
少しでも怪しいことがあると、関所の役人は人見女(ひとみおんな、改め女)を呼んだ。すると人見女は別の場所にその女性を連れて行き、髪をほどいたり服を確かめたり、場合によっては裸にして確認することもあった。これを女改めという。
丸亀(まるがめ)藩士の娘・井上通女(つうじょ)は、箱根関所で老いた人見女が荒々しく近づいてきて、野蛮な作法で髪をかき上げながら、だみ声でしゃべりかけてきたので、「胸がつぶれる心地がした」と記している。関所は女性にとって、極めて不快な場所だったわけだ。それでも、江戸中期以降、女性の旅行者が増加すると、関所でのチェックはかなり緩和された。とくに御陰(おかげ)参り(爆発的な伊勢参りの流行)では、関所に人々が殺到したので、女改めはおこなわれなかったという。
ただ、関所を強行突破したり、関所を迂回したりする関所破りは、死罪と決まっていた。
しかし、260年近く続いた関所制度のなかで、有名な箱根や新居などでも関所を破って処刑された例は数例しか存在しない。しかもそのほとんどは現行犯ではなく、後日発覚したケースであった。
実は、あえて関所破りを黙認していたようなのだ。関所破りがあると、役人の落ち度にされる。近隣村も山狩りなど面倒なことになる。だからあえて黙認していたらしい。さらに江戸後期になると、関所近くの村人たちが関所を回避するために舟を提供するなど、金銭をもらって関所破りに協力していたことも分かっている。このように次第に、関所制度はずさんに、ある意味、形骸化していったのである。
[河合 敦 記]
参考文献
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