「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるが、将軍のお膝元である江戸は、記録されているだけで幕末までに2,000件以上もの火事があった。家屋が主に紙と木でつくられ、人口が密集しているうえ、冬は乾燥して風が強いので、大火になることも珍しくない。10年間の火事による焼失面積は、江戸市街地の広さに匹敵したという。
もちろん、同じ場所が何度も被害に遭うこともある。たとえば「日本橋堺町、葦屋町界隈(略)は明暦の大火以降185年間に33回も全焼」(村田あが著「江戸時代の都市防災に関する考察(1)」『跡見学園女子大学マネジメント学部紀要 第15号』)しているそうだ。
幕府も延焼を防ぐため、広小路(ひろこうじ)や火除地(ひよけち)を設け、燃えにくい瓦屋根や土蔵造りを奨励。大名に火消(大名火消)を組織させ、旗本にも火消(定火消)の義務を課し、さらに8代将軍徳川吉宗は町火消(いろは四十七組)を創設した。
しかし当時は、建物を撤去して空き地をつくる破壊消防が中心だったこともあり、大火になると、歯が立たなくなってしまった。
なお、火事のあと、焼け出された被災者は諸物価高騰のあおりを受けて、犯罪に走る者も出てくる。このため、幕府は治安維持の観点からも御救(おすくい)小屋(仮設住宅)を建て、炊き出しを行うとともに、米や材木、労働賃金の値上げを厳禁とした。
とはいえ、庶民も幕府に依存せず、火事がいつ起ころうとも、命と財産は自分で守るよう心掛けた。日ごろの備え、初期消火の秘訣、火から逃れる方法などをまとめた『鎮火用心集』、『火之元用心記』といった多数の防災マニュアルが出版されていることでも、それが分かる。
たとえば火が迫ったとき、土蔵に大事なものを入れて粘土などで扉を密封するが、その際、同時に蔵の内部に何本も燭台や蝋燭を立て火をつけておく。すると土蔵内は酸欠状態となり、炎が内部へ入り込まないのだ。大福帳(会計簿)などは長い紐をつけ、井戸に投げ込んでしまう。鎮火後、引き上げて乾かせば良い。和紙は丈夫なうえ、墨で書いた文字は消えないからだ。
研究者の岩淵令治氏は、江戸の庶民が事前に知人と火事の際の取り決めをかわし、家財の運び出しの手伝いや荷物の相互預かりをしている実態も紹介している。
いずれにせよ、火事は人びとの命と財産を奪うので、幕府は放火犯に極刑を科した。犯人を裸馬に乗せて被災地域を引き回してさらし、品川の鈴ヶ森(すずがもり)か千住の小塚原(こづかっぱら)などで火あぶりの刑に処したのである。
また、放火犯を捕らえたり、情報を提供した者には報奨金を出した。たとえば享保8年(1723)11月には、町名主の庄次郎が五兵衛という怪しい者を捕らえ、取り調べたところ放火犯だったので、幕府は褒美として銀30枚を庄次郎に与えている。この五兵衛、愛宕下(あたごした)から出火したとき、それに乗じて増上寺前の豆腐屋、明神前の町屋、新網町春日社手前の肴屋などに火をつけて回り、結果、大火になったのだった。
[河合 敦 記]
参考文献
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