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株式会社 日立システムズ

第2回 糞尿のリサイクル

現代では不浄で不潔なイメージが強い糞尿だが、江戸時代、いや戦後の高度経済成長期までは大切な資源として使われていた。そう下肥(しもごえ)である。人や動物の排泄物が肥料として用いられるようになったのは、鎌倉時代後期からだとされる。戦国時代になると、下肥は一般的になっていく。戦国大名が領国の開墾を進めたことで農地が増える一方、林や草原が減り、刈敷(かりしき)や草木灰(そうもくばい)といった肥料が不足したからだ。

江戸時代、将軍のお膝元である江戸の町は、急激に人口が増加した。そんな江戸っ子の食の需要を満たすため、周辺の農家での野菜生産が盛んになる。その結果、江戸近郊の農民たちが、手軽な肥料として江戸市中の屎尿(しにょう)を積極的に集めるようになった。元禄時代(1680~1709年)までは、便所の掃除を条件に住人たちは糞尿を提供しても、農民に代価を求めることはなかった。ところが、享保年間(1716~1736年)あたりになると、江戸の武家と町人は農家と個別契約を結び、金銭や野菜を納めさせるようになった。それだけ下肥の需要が増えたのである。

江戸の長屋には、各部屋に便所は備え付けられておらず、外に共同便所があった。これを後架(こうか)と呼ぶが、農民が汲み取りに支払う代価はすべて大家の収入と決まっていた。20~30人ほどが住む長屋だと、その金額は年間にして1~2両になったという。

また、誰でも使用できる小便桶が市中のあちこちにあった。今で言う公衆便所だ。近くの農民が許可を得て桶を設置し、尿を回収して肥料にしていた。天明4年(1784)には日本橋・浅草・下谷・本所・深川などに160カ所もあったというから結構な数だ。それでも江戸後期に成立した史料『守貞謾稿』によると、尿はもっぱら溝などに流していたそうだ。小便桶は主に旅人や商用などで訪れた人びとが使ったと考えられている。

江戸ではあまり重視されなかった尿だが、上方では大切に扱われた。便所も上方では大便桶と小便桶が別々に設置されることが多く、糞は大家の収入だったが、尿は住人に代価が支払われたという。

19世紀になると、江戸では糞尿を専門に扱う仲買人が現れ、中川や江戸川、荒川などの水運で近郊の農村へ輸送する下肥の流通機構も整備された。糞尿を運ぶ船を肥船(こえぶね)と呼ぶが、肥桶を船に積み込むタイプのほか、部切船(へぎりぶね)といって糞尿を溜める仕切りを設けたタンカーのようなものもあった。肥船が着く江戸近郊の下肥河岸には、大きな肥溜めがつくられ、船から肥溜めに移された糞尿は数か月ほど寝かされ、下肥として各農家へと運ばれていった。明治時代になっても下肥の流通は盛んで、明治5年(1872)の『東京府志料』を見ると、東京府の川船の総数6,545隻のうち、なんと1,564隻が肥船だった。

現在、毎日排出される膨大な屎尿は大金をかけて処理されている。エネルギーが不足し、物価が高騰している現代、こうした屎尿をもう一度、資源として活用する道を考えても良いのではなかろうか。

参考文献

  • 渡辺信一郎著『江戸の生業事典』(東京堂出版)
  • 屎尿・下水研究会編著『シリーズ・ニッポン再発見④ トイレ』(ミネルヴァ書房)
  • 石川英輔著『大江戸リサイクル事情』(講談社文庫)
  • 根崎光男著「江戸の下肥流通と屎尿観」(『人間環境論集』法政大学人間環境学会)

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※ コラムは筆者の個人的見解であり、日立システムズの公式見解を示すものではありません。

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