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専門家コラム:江戸時代の意外な話

クイズ

第6回

江戸時代の関所について、次の1~3のうち、誤っているものはどれでしょう。

1)水上交通に関所が設置されることがあった。

2)地方から江戸に入る女性も、関所でチェックされた。

3)男性も、関所で関所手形を差し出す必要があった。

  • 【答え】3)男性も、関所で関所手形を差し出す必要があった。

    【解説】

    「女手形」に相当する男性の関所手形は必要なかった。研究者の渡辺和敏氏は、関所手形について次のような指摘をしている。「制度的には関所手形は不要であった。しかし、通過する際に関所役人から厳しく取り調べられることもあるので、居住地の名主や旦那寺、時には関所近くの旅籠屋(はたごや)などで関所手形を書いてもらったり、自分で書いたりすることもあった」(『東海道交通施設と幕藩制社会』岩田書院)
    なんと、関所手形を関所近くの旅籠に作成してもらったり、時には自分で勝手に書いたというのだ。

    1)は正しい。
    有名なのは中川船番所(東京都江東区)である。江戸市中への入口にある水の関所だ。
    江戸時代、利根川水系や江戸川水系の舟運が発達。さらに太平洋から利根川を遡ってきた品物も新川や小名木川(おなぎがわ)を通って江戸へと運ばれるようになった。
    こうした莫大な船荷の品目や数量を江戸の入口で臨検するのが、小名木川の東端、中川とぶつかる場所に置かれた中川船番所だが、船荷の検査に加え入鉄砲出女を厳しく取り締まっていた。陸路と異なり、船は人が隠れやすい。だから通関の際には船の戸を開け、乗船者はすべて笠や頭巾をとって番所の役人に顔を見せた。怪しい者がいないか、女性が混じっていないかを調べるためだ。人が入れるような容器を船が積んでるときは、女性が隠れていないか、中を改めることになっていた。ただ、女性の関所手形は必要なかった。なぜなら、そもそも女性は一切、船での通過が許されていないからだ。

     

    2)は正しい
    じつは地方から江戸へ入る女性も関所でチェックされた。あるいは、通過を一切許さない関所もあった。女性が江戸へ出てしまうと、農村の人口が減ってしまうので、殖産や人口維持の狙いがあった。また、人身売買で江戸に売られるのを防ぐ目的もあったとされる。

    <参考文献>
    渡辺和敏著『東海道交通施設と幕藩制社会』(岩田書院)、大島延次郎著『関所 その歴史と実態 改訂版』(新人物往来社)、金井達雄著『中山道碓氷関所の研究 上巻』(文献出版)、江東区教育委員会生涯学習部生涯学習課編『江東区中川船番所資料館 常設展示図録』(江東区中川船番所資料館)

第5回

江戸時代の医療事情について、次の1~3のうち、誤っているものはどれでしょう。

1)水戸藩では、疱瘡患者の瘡蓋や膿を鼻から吸い込む人痘法が行われた。

2)緒方洪庵は、疱瘡の治療法や看護法などを記した本を出版した。

3)幕府は風邪が流行した際、貧しい者たちに給付金を支給した。

  • 【答え】2) 緒方洪庵は、疱瘡の治療法や看護法などを記した本を出版した。

    【解説】

    緒方洪庵が書いたのは疱瘡ではなく、コレラの治療法や看護法の本である。大坂でコレラが爆発的に流行したとき、洪庵は専門的な蘭医書3冊からコレラの治療法を抜き書きして翻訳し、『虎狼痢治準(ころりちじゅん)』を急遽出版し、医師たちに頒布して治療にあたらせている。

    1)は正しい。 徳川斉昭は藩医の本間玄調(げんちょう)らに人痘法を行わせている。玄調は長崎でシーボルトから種痘技術を学んだ優れた医師である。

    3)は正しい。 享和2年(1802)3月に風邪が流行した際、日雇いの者たちは難儀しているだろうからとして、幕府は4歳以上の者に金銭を支給している。単身者は300文。2人暮らし以上には1人250文ずつが支給された。

    <参考文献>
    深瀬泰旦著『わが国はじめての牛痘種痘 楢林宗建』(出門堂)、緒方洪庵記念財団除痘館記念資料室編『緒方洪庵の「除痘館記録」を読み解く』(思文閣出版)、『御触書天保集成 下』(岩波書店)、酒井シヅ著『絵で読む江戸の病と養生』(講談社)、石島弘著『水戸藩医学史』(ぺりかん社)

第4回

次の 1)~ 3)のうち誤っているものはどれでしょう。

1)喜多川歌麿は、ワイングラスで酒を飲む女性の錦絵を描いた。

2)8代将軍徳川吉宗は、海外からアラビア馬を輸入した。

3)江戸時代に輸入されたエジプトのミイラは、見世物として人気だった。

  • 【答え】3)江戸時代に輸入されたエジプトのミイラは、見世物として人気だった。

    【解説】

    ミイラを購入したのは薬屋や医師たちで、薬として珍重したのである。貝原益軒による動植物・鉱物の薬効を研究・分類した『大和本草』(1709年刊行)には木乃伊(ミイラ)の項目があり、次のように記されている。
    「打ち身や骨折箇所に塗る。虚弱や貧血に桐の実の大きさに丸めたミイラの丸薬を一日一、二度ほどお湯で服用する。産後の出血、刀傷、吐血、下血のさいに服用する。気疲れ、胸痛、痰があるときは、酒や湯と一緒に飲む。しゃくり胸痛も同様。虫歯には患部の穴に蜜を加えてミイラをつける。頭痛、めまいは湯とともに服用。毒虫や獣に咬まれたときは粉末にして油を加えて塗る。妊婦が転んで気を失ったとき、ミイラを火で炙って、その臭いをかがせると良い。痘疹が出たときは、身体を温めてから服用する。食あたりはお湯で、二日酔いは冷水で服す」
    このようにミイラが万能薬と考えられていたことが分かる。ミイラには防腐剤が塗られているが、その主成分はプロポリス。ミツバチの巣から採取される有機物質で、テルペノイド、フラボノイド、アルテピリンなどで構成されて「天然の抗生物質」と呼ばれる。抗菌作用が強く、滋養強壮に効くとともに、ピロリ菌を抑えるので、確かに胃腸炎には効果があったようだ。科学技術史の研究者・宮下三郎氏によれば、寛文13年(1673)、オランダ船が約60体のエジプトのミイラを持ち込んで売り払った記録が残っているという。記録に残っていないものを含めたら、江戸時代、相当多くのミイラが日本に入ってきたのは間違いない。
    1)だが、喜多川歌麿には「俗ニ云(ぞくにいう)ばくれん」と題した作品があるが、画中の女性は袖をまくり上げて蟹を手づかみにし、もう片方ではワイングラスを持って酒を飲んでいる。そんな姿が描かれるほど、ワイングラスは当世風なものだったのだ。
    2)だが、吉宗が象を輸入したのは有名だが、じつはオランダからアラビア種の馬を輸入し、南部馬とかけ合わせて体格の向上をはかっている。このおりオランダ人馬術師のケイズルを招いて、幕臣に西洋馬術の講習をおこなわせている。

    <参考文献>
    河合敦著『禁断の江戸史~教科書に載らない江戸の事件簿~』(扶桑社新書)、田代和生著『倭館―鎖国時代の日本人町』(文春新書)、田代和生著『近世日朝通交貿易史の研究』(創文社)、東京都教育委員会編『江戸から東京へ』(東京都教育委員会)、永積洋子編『「鎖国」を見直す』(山川出版社)、山脇悌二郎著『長崎の唐人貿易』(吉川弘文館)

第3回

幕府が定めた火事に関する法律について、誤っているものはどれでしょう。

1)幕府は、火事のとき畳の持ち出しを禁止する法律を出した。

2)幕府は、放火犯が20歳未満であれば、温情をもって無罪とした。

3)幕府は、注意しても異議を申し立てる火事の野次馬は斬り殺して良いとした。

  • 【答え】2)幕府は、放火犯が20歳未満であれば、温情をもって無罪とした。

    【解説】

    幕府の法律『公事方御定書』には「子心にて弁(わきま)えず火を附け候者、十五歳まで親類へ預け置き、遠島(えんとう)」とある。つまり江戸時代は15歳(当時は数え年なので、主に満14歳)から成人とされ、それより年下の子供は、まだ善悪の分別が付かないということで罪は軽くなる。とはいえ、15歳に達した段階で島流しに処せられたのである。
    (1)だが、幕府は元禄16年(1703)に「火事の節、戸障子畳そのほか、家作の道具まで持ち出し候ゆえ、道ふさがり、往行不自由候間、向後左様の物持ち出し候はば、見合い次第召し捕らえ申すべき事」と定め、通行の邪魔になるため、戸や障子、畳の持ち出しを禁じ、違反者を逮捕することにしたのである。
    (3)も実際に、寛政7年(1795)に出された法令である。「見物の者大勢馳せ集まり、火防方(消火活動)並びに往来の障りに相成り、不届きの至りに候。これにより無用の者一切罷越さず候様、家主、名主どもより急度申し渡し置くべく候。もし相背き、見物体の者、罷り越し候はば(集まってくれれば)、火事場へ出候役人共、召し捕り申すべく候、異議に及び候はば(不服を申し立てたら)、切り捨て申すべく候」。つまり、消防活動の邪魔になるので野次馬は許さない。集まってくれば逮捕し、文句を言うヤツは斬り殺してもよいというのだから、驚くべき通達である。

    <参考文献>
    岩淵令治著「18世紀の<消防教訓書>と江戸町人の消防意識」(『国文学研究資料館紀要 アーカイブズ研究篇 第18号』所収)、村田あが著「江戸時代の都市防災に関する考察(1)」(『跡見学園女子大学マネジメント学部紀要 第15号』所収)、河合敦著『江戸のお裁き 驚きの法律と裁判』 (角川oneテーマ21) 、山本純美著『江戸・東京の地震と火事』(河出書房新社)、吉田豊著「蓄積された火事との付き合い方の知恵」(農文協編『江戸時代にみる日本型環境保全の源流』農山漁村文化協会所収)

第2回

下肥(しもごえ)について、次の中で正しいものはどれでしょうか。

1)18世紀後期、農民が小便桶(公衆便所)の設置を提案したさい、町名主たちは賛成した。

2)18世紀末、農家が江戸の人びとに支払う糞尿代は、年間10万両にのぼった。

3)江戸の糞尿は、春よりも冬のほうが高値で取り引きされた。

  • 【答え】2)18世紀末、農家が江戸の人びとに支払う糞尿代は、年間10万両にのぼった。

    【解説】

    根崎光男氏が寛政4年(1792)の史料をもとに試算しており、それによると、江戸全体で年間10万両にのぼったと推定されるという。しかも糞尿の値段も年々高騰しており、寛政年間(1789~1801年)には寛延年間(1748~1751年)の約5倍になったそうだ。このため江戸近郊の農家は、江戸の町に対して取り引き価格の値下げ運動をおこなっている。 なお、1)だが、町名主たちは小便桶が邪魔になったり、臭くて不潔だと設置に反対している。 3)は、やはり田植えの時期である春の方が高値で取り引きされた。

    <参考文献>
    渡辺信一郎著『江戸の生業事典』(東京堂出版)、屎尿・下水研究会編著『シリーズ・ニッポン再発見④ トイレ』(ミネルヴァ書房)、石川英輔著『大江戸リサイクル事情』(講談社文庫)、根崎光男著「江戸の下肥流通と屎尿観」(『人間環境論集』法政大学人間環境学会)

第1回

「おちゃない」と呼ばれた行商人は、どのような商売をしたのでしょうか。

1)使用済みの茶葉を買い取り、肥料として農家に売った。

2)抜け落ちた髪の毛を買い集め、髢(かもじ)屋などに売った。

3)緑茶を買えない庶民に麦茶の炒り麦を安価で販売した。

  • 【答え】2)抜け落ちた髪の毛を買い集め、髢(かもじ)屋などに売った。

    【解説】

    「おちゃない。おちゃない」と連呼しつつ家々をまわって、抜け落ちた髪の毛を集めて回った。「髪の毛の落ちはないか」の「落ちはないか」がなまって「おちゃない」あるいは「おちがい(落買)」と呼ばれるようになった。おちゃないは集めた髪で髢、つまり自毛の足りない部分を補う入り毛で、現代でいうエクステをつくったり、髢屋に売ったりして生計を立てたという。

    <参考文献>
    渡辺信一郎著『江戸の生業事典』(東京堂出版)、三谷一馬著『江戸商売図絵』(中公文庫)、竹内誠監修『図説江戸4 江戸庶民の衣食住』(学研)、『日本国語大辞典』(小学館)、新宿区公式HP

 

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