突然ビジネス・キューピッドを訪れたあすなは、日比野が手に持っている資料から視線を離さないまま、表情をこわばらせた。
「おい…よその会社の資料をのぞき見するな」
日比野がそう言って資料を片付けようとすると、あすなは「待ってください」と言った。
「その宿のこと、…手伝ってくださるんですか?」
「お前はもうこの会社のメンバーじゃない。秘密を教えるわけにはいかないんだ…それくらい分かるだろう?」
日比野の返答に、あすなはなおも食い下がる。
「…お願いです。助けてあげてくれませんか?」
妙に必死さがこもるあすなの声に、日比野も異変を感じ取った。
「お前、この会社と何か因縁があるのか?」
日比野はそう尋ねながら、ナミに目配せする。ナミはあすなに椅子を薦め、コーヒーを淹れはじめた。
「…うちの会社が、手を引いたんです。N温泉街の再開発」
「H社が…安田がそう決めたのか?」
そう聞くと、あすなはうなづいた。かつて、日比野とライバル関係にあった安田は今、H社の東日本開発本部の本部長の座に就いている。ここに座っているあすなは、ついこの間まではビジネス・キューピッドで働いており、かつ、今はH社で安田のもとで働いている。
「それでも、あの人…沼田さんは、本当に頑張っているんです。だから、個人的にどうしても見捨てることが辛くて…」
あすなはそう言ってうつむく。しかし、日比野の表情が変わることはない。
「安田がなぜ、再開発案件に手を出さなかったか、理由は分かっているんだろう?」
「はい。温泉街全体が観光客の減少に歯止めがかからない中で、無理に多額の融資を受けて再開発を行っても、総倒れになってしまう恐れがある、って」
あすなの説明は、端的で要領を得ていた。あの安田が少しは鍛えてくれているのかもな…そう思いながら、日比野は「そうだな」とうなづいた。
「俺も同感だ。観光客が減っているのに、あれだけの温泉旅館の数だ…すべてを生き残らせることは不可能に近い」
日比野の淡々とした口調に、あすなは「はっ」としたように目を見開いた。
「じゃあ、沼田さんの申し出も断ったんですか?」
食い入るような視線から目をそらすように、日比野は「いや」とつぶやく。
「…そのつもりだったが、彼がもう一度出直してくる、と言ったからな。もう一度話を聞こうと思っている」
あすなはその言葉に、少しほっとした様子だった。
「沼田さんは、N温泉街の商店会で理事長をやってるんです。だから『いざよい荘』だけでなく、N温泉街全体のことをいつも考えて動いていて…そのことは安田さんもよく分かっていたはずです」
「…理事長か」
日比野はなるほど、と思っていた。先ほどの沼田の案件は「いざよい荘」単独でのリノベーションの提案ではあったものの、沼田はなぜかN温泉全体の強みを必死に説明しようとしていた。あのときはちぐはぐな印象を受けたが、温泉街全体を取り仕切る立場を兼ねている人物の発言だとしたら、多少合点がいく。それに、あの若さで理事長を引き受けているからには、沼田はよほどの思い入れがあって行動しているに違いない。
「しかし、安田がそこまで沼田を買っているなら、H社も無条件に案件から手を引いたりはしないだろう?何か裏があるのか?」
「…すみません、私もまだ新人なのでそこまで話を聞くことができるわけじゃなくて…」
あすなは悲しげな表情を見せながら、コーヒーに角砂糖を1つ、落とした。日比野はしばらく考え込むようにして、ポケットから携帯電話を取り出した。
「お前にとって、これが初めての案件か?」
「ボツになっちゃいましたけどね…やっと本格的にプロジェクトに加えてもらえそうだったのに」
「逆に言えば…お前に別の案件が回ってくるまでに、少し時間があるということか」
「…ええ、まぁ」
あすなの中途半端な返事を聞き終わる前に、日比野はもう電話をかけていた。
「日比野だ。…用件は気づいているな?」
言うまでもなく、電話の相手は、安田だった。
「ははは、相変わらずだな…そのとおりだ。いざよい荘の沼田さん、早速お前のところに来たか。俺が紹介したんだ」
安田の一言に、日比野の顔色が変わる。
「…紹介だと?」
「ああ、温泉街全体の復興を考えるのはまだ早すぎる。まずは旅館単体での立て直しを図ってみたらどうか?ということで、ビジネス・キューピッドを紹介したんだが…」
「沼田はそんなことは言ってなかったぞ」
日比野はそう言いながら、途中で気づいた。
「…つまり、安田の名前を借りずに案件を持ち込んできたということか。なるほど、思ったより骨のある人間のようだな」
「ああ、僕も同じことを考えたところだ」
安田の声を聞きながら、日比野は安田の魂胆を想像していた。そして、「やはり安田はただ者ではなかった」そう思って、にやりと笑った。
「…なぁ、日比野。物は相談なんだが」
安田が何か言おうとしたが、日比野はそれを遮るように
「言われなくても分かっている…今ここにいる君の部下を、しばらく預かってもいいな?」
「あっはっは、やけに早く帰ったと思ったら、道草くんはそっちに行っていたのか。ああ、週明けから彼女を預けるから、よろしく頼む」
電話を切るや否や、日比野はあすなに手短に伝えた。
「月曜日からお前はうちに出向することになった。今週いっぱいで向こうの雑務を一とおり片付けてこい」
「えっ!?…なんで?」
「理由は自分で考えろ。いちいち教えていられるほど俺は暇じゃない」
それだけ言うと、日比野は立ち上がった。
「ナミ、戸締まりは自分でやるから、あすなを連れて行ってやれ」
「はい…あすなちゃん、ちょっと待っててね」
あすなは複雑な思いで、ナミが帰り支度を整えるのを待っていた。
再び日比野と仕事ができる喜びも、もちろんある。しかし、あすなはまた不安でもあった。私はまた、この人の足を引っ張っちゃうんじゃないかしら…。
「あすなちゃん、お待たせ。行きましょ」
「はい」
オフィスを出るとき、あすなはもう一度、日比野と目を合わせた。
「社長…来週からまたここに来ます。よろしくお願いします」
頭を下げたが、日比野の答えは「いいや…」だった。
「お前が来るのはここじゃない。月曜から『いざよい荘』に行ってこい」
思いもよらぬ日比野の言葉に、あすなは絶句した。
「沼田さんは困っているんだろう?1日も無駄にはできない。水曜までに沼田と相談して、『ペルソナ』を描いてこい」
「ぺ…何それ?」
日比野は当然何も答えなかった。が、日比野の言いたいことはあすなにも分かっている。
「それくらい、自分で調べろ」でしょ。
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