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戦国武将から学ぶ教訓

【第6回】米五郎左と呼ばれた信長の懐刀・丹羽長秀

「木綿藤吉・米五郎左・掛かれ柴田に退き佐久間」。こう呼ばれた織田家の名将4名のうち、信長に最も信頼された武将・丹羽長秀。その生涯と人物像について解説します。

丹羽長秀の生涯

筆頭家老・柴田勝家に次ぐ二番家老の地位にあり、織田信長とは姻戚関係という深いつながりを持つ武将・丹羽長秀。

丹羽長秀の生まれは、織田家に代々仕える丹羽一族。その家の次男として生まれた長秀は信長と歳も近く、幼い頃から小姓として信長に仕えてきました。そのつながりもあってか、信長に「長秀は友であり、兄弟」とまで言われるほど信頼されています。そんな丹羽長秀は織田家の発展途上から活躍しており、桶狭間の戦いや美濃攻略戦、足利義昭上洛戦、浅井朝倉戦など、主要な戦で武功を上げ、家臣団で初めて若狭国という国まるごとを与えられる国持大名になっていきます。
信長が上洛を果たした後は、武功よりも政務にまつわる活躍が目立つように。朝廷への使者や京都周辺の行政、寺院や諸大名への対応などのほか、戦の物資の調達や補給路の確保など、あらゆる雑務をこなし信長の覇道を裏から支えていました。そうした功績から、信長の居城となる安土城普請の総奉行を任されたほか、京都御馬揃えでは先頭での入場を任されています。
本能寺の変後は秀吉と協調し、秀吉の天下統一を支え、その血筋を後世に残すことに。1585年、51歳でその生涯を閉じます。

エピソードで見る丹羽長秀の人物像

織田家の双璧と言われた柴田勝家と丹羽長秀、二人の性格はずいぶん異なります。勇猛果敢で軍事を得意とした勝家に対し、長秀は冷静沈着で粛々と重要な政務をこなす官僚、あるいは参謀タイプと言えるでしょう。
そんな長秀の性格をうまく表しているのは、やはり「米五郎左」という異名。これが意味するところは、「長秀(五郎左)は米のようになんにでも合い、織田家にとってなくてはならないもの」ということ。事実、長秀はそのほかの家臣のように輝かしい戦績はないものの、加賀一向一揆の際の船の調達など、重要な戦の後方支援などを行い、スムーズな軍事行動を支えています。
また、自身の立ち位置をわきまえ、時流を読むことができる合理的な部分もあります。天下の趨勢が秀吉に傾いたのを見ると、勝家のように反発せず冷静に従う意向を示しています。しかし、やはり信長への忠誠からか、死の間際に自分のはらわたを秀吉に送りつけた、なんて逸話も。秀吉のもとで織田家が衰退していくのが、内心は歯がゆかったのかもしれません。

丹羽長秀の成功と失敗から学ぶ教訓

自己主張をせず、淡々と確実に仕事をこなしてゆく、まさに縁の下の力持ちといったイメージの丹羽長秀。その人生から学ぶべき教訓とは、どのようなものでしょうか?

足るを知る

下剋上が常の戦国時代において、自分をことさらに主張しない丹羽長秀のような武将はとても異色です。それでも信長に信頼され、秀吉にも重用され、最終的に家を残せたのは、長秀の謙虚な気持ちと、誇りを持って着実に仕事をこなす姿勢があってこそ。
たとえば秀吉や光秀が官位を授けられた際、長秀も官位をもらっていますが、「拙者は生涯、五郎左のままで結構」と固辞しています。これは、分不相応な官位に対する遠慮と、信長のいち家臣としての自分の仕事ぶりを誇りに思っていたからこその行動と言えるでしょう。
長秀ほど、自分の能力と適正をよく理解していた武将はあまりいないのではないでしょうか?現代においても自分の立場を理解することは成功への大きな一歩。米五郎左からその能力を学び、活かしていきましょう。

株式会社ライトアップ監修

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