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戦国武将から学ぶ教訓

【第5回】情に厚く行動力に優れた昔気質のリーダー・柴田勝家

織田信秀、織田信長と二代に渡って織田家に仕え、最後まで織田家への忠誠を貫いた猛将・柴田勝家。その生涯と人物像について解説します。

柴田勝家の生涯

武勇に優れ、実直で、そして情に厚い…まさに万人が想像する武将そのもののイメージが強い柴田勝家。猛将という言葉にふさわしいその人生に迫ります。

織田家の筆頭家老ということもあり、昔から織田信長に忠誠を誓っている印象の勝家ですが、元々は織田信長の弟である織田信行に仕える武将でした。勝家自身も信行が主君にふさわしいと考えて、一度は信長の命を狙ったことも。最終的にはその罪を許されたことで、家臣団の中で随一の忠誠心を持つに至ります。
勝家の活躍が歴史に登場し始めるのは、足利義昭との上洛戦から。鬼柴田と恐れられるほどの武勇伝を持つ勝家は、以降、ほぼすべての主要な戦に参戦し、次々と武功を挙げていきます。長島一向一揆の殲滅(せんめつ)戦では、退却時の殿(しんがり)を務めたほか、信長が各地に侵攻を始めた際は北陸方面軍の司令官を任されるなど、戦において信長からの全幅の信頼を集めていたことが伺えます。
しかし、本能寺の変以降、山崎の戦いで秀吉に仇討ちの名誉を奪われてからは、秀吉の後塵を拝する機会が増えていきます。信長後継問題を話し合った清州会議で秀吉に敗れてからはさらに対立が深まり、ついに全面衝突。秀吉のさまざまな策に対応できず、賤ヶ岳の戦いで敗れ、最後は北ノ庄城にて自害。その人生を終えることになります。

エピソードで見る柴田勝家の人物像

晩年は豊臣秀吉の奇想天外な作戦に翻弄され、破滅を迎える柴田勝家。さまざまな権謀術数を巡らせる豊臣秀吉に対し、勝家はあまりにも愚直すぎたのかもしれません。勝家は真っ向勝負をよしとする昔ながらの武将そのもの。時に無謀な戦術を取ることもありました。
例えば六角氏との戦いにおいて籠城戦となり、水も残り少なくなった時に、勝家は最後の水瓶を割って、あえて絶望的な状況にすることで家来を奮起し、勝利しました。
こうした精神論的な手法は合理的とはいえないかもしれませんが、指揮官を信頼している集団においては時に驚くべき力を発揮することがあります。とはいえ、この手法はあくまで信頼関係あってこそ有効に働くもの。その点、柴田勝家は恩情に厚く、部下との絆が強かったといえます。
勝家の恩情を示すものとして、賤ヶ岳の敗戦後のエピソードがあります。勝家は敗因であり戦線離脱した前田利家に会いにいき、戦線離脱を責めるどころか、秀吉方に寝返るように諭したと言われています。また、共に戦った家来には報いることができないと、最後に嘆いたそう。こうした厳しくも温かみのあるところが勝家の武将としての魅力だったのかもしれません。

柴田勝家の成功と失敗から学ぶ教訓

勇猛果敢で情に厚い、不器用で人間味のある指揮官だった柴田勝家。その人生から学ぶべき教訓とは、どのようなものでしょうか。

常識を疑う力を持つ

秀吉に敗れたとはいえ、勝家はなにも真っ直ぐ向かうだけの武将ではありません。長年の戦の経験から得た高度な戦略や知略、さらには内政の力も高水準にあります。
では、なぜ秀吉に負けたのでしょうか。それは、まさにその経験豊富さと言えるでしょう。
秀吉は本能寺の変後、中国大返しというまさにどんでん返しを行っています。また、賤ヶ岳の合戦前には、雪で動けない勝家を尻目に、柴田軍を調略で切り崩すなど、規格外の動きを見せています。
「行軍のスピードはこれくらい、開戦のタイミングはこれくらい…」といった勝家の長年の経験則が侮りを生んだとも言えます。経験則は非常に大きなアドバンテージでもありますが、過信しすぎると、常識外の動きに翻弄されることも。信長という規格外の主君の元にいながら、常識を疑う力を学べなかったことが残念でなりません。
常に新しい知識や技術、可能性を模索していくことは現代でも必要不可欠な力と言えるでしょう。

株式会社ライトアップ監修

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