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第25回 「THE武士道」~立花宗茂(たちばな むねしげ)~

北条氏康

義は武士の掟の中で、最も厳格な教訓である。武士にとって卑劣なる行動、不正なふるまいほど忌むべきものはない―新渡戸稲造は武士道精神を「義」から説き起した。「義」すなわち人の踏み行うべき正道。新渡戸が「武士道」を著すとき、念頭にしたのはこの武士(もののふ)ではないか、という漢(おとこ)がいる。豊臣秀吉が「その忠義は鎮西一、その豪勇もまた鎮西一」と称えた立花宗茂である。

鎮西(ちんぜい=九州)の雄、大友宗麟の雄飛を支えた猛将は、高橋紹運、立花道雪。宗茂はその紹運を父に永禄10年(1567年)に生まれ、15歳で道雪の養子となった。

天正13年(1585年)大友氏は薩摩島津氏の猛攻に遭う。衰勢の大友氏を見限り、多くの武将が逃亡し裏切るなかで紹運と立花父子は「主家が衰えた時こそ身を尽くすのが真の忠義」と奮戦。筑前立花城に籠った宗茂はわずか1500の兵で逆に島津勢を駆逐した。秀吉はこの武功を誉め、宗茂に筑後柳川13万5千石を与え直臣大名に取り立てた。冒頭の感嘆辞はその時のもの。

宗茂の行動規範はただひとつ、信義である。事の判断は「有利か不利か」ではなく、「信義に適うか否か」であった。天に誓って恥じることなし、である。
朝鮮の役(1592年/1597年)。碧蹄館(ペクチュガン)の戦いでは明と朝鮮の連合軍15万余に対しわずか2千騎で先駆け、白兵戦の末に日本軍を勝利に導く。秀吉の死による撤退戦では、敵陣に孤立した加藤清正と小西行長を「これを見捨てては日本武士の恥」として救出。清正は宗茂の仁義に「日本無双の勇将」と謝した。

そして慶長5年(1600年)天下分け目の関ヶ原合戦。宗茂の実力を知る徳川家康は50万石の恩賞で誘うが「いやしくも義に背いて生きんよりは死するに如かず」と拒絶。「鎮西の武士はかくあるべし」と豊臣方に参陣し大津城を攻略。本戦はあっけなく敗退したが、勝敗や利害を度外視し、ただ「義」によってのみ関ヶ原に臨んだ武将は宗茂と大谷吉継だけである。筑後柳川への帰途、実父紹運の敵の島津義弘と遭遇した際は「寡兵とみて討つは武士の信義にもとる」として、むしろ義弘主従の護衛を申し出た。義弘は宗茂の義侠に感激し、以来、友誼を結ぶ。

関ヶ原で敗れ柳川領を没収された宗茂は一介の浪人に。流浪の日々は赤貧を洗うがごとし。宗茂に随った20数名の家臣が懸命に支えた。しかし宗茂ほどの人材を家康が放置するはずはない。慶長9年(1604年)2代将軍秀忠の相伴衆(しょうばんしゅう)に取り立てられ、2年後には奥州棚倉(福島県棚倉町)1万石を与えられ復権。さらに元和6年(1620年)筑後柳川に再封、実に20年ぶりに柳川領主に返り咲く。関ヶ原合戦で西軍に属して敗れ、その後に旧領に復した武将は、宗茂ただ一人である。

新渡戸が「武士道」の副題としたThe Soul of JAPAN(日本の魂)とは、立花宗茂の烈々たる士魂(しこん)ではないか。同時代の名だたる武将らが「武士の中の武士」と称えた立ち居ふるまいは、まさに八風吹けど動ぜず、武士の鑑(かがみ)であった。

この行動規範を信義とする「THE武士道」から学ぶものは、今のBizスタイルにおいても多いのではないだろうか。

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