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戦国武将に学ぶBizスタイル

戦国武将の知恵や創意工夫、意外なエピソードなどをご紹介!

第17回 「二人羽織の武将」 ~黒田官兵衛(くろだ かんべえ)~

黒田官兵衛

竹中半兵衛と黒田官兵衛。この二人を指して秀吉の二兵衛(にひょうえ)あるいは両兵衛と言う。羽柴秀吉を天下人に押し上げた戦国の参謀軍師である。ことに官兵衛は、その知謀と先見において参謀の才幹を超え、将の将たる器でもあった。

天正3年(1575年)、30歳の官兵衛は播州(姫路)の小豪族小寺政職(こでらまさもと)に仕えていた。この時、小寺氏は東の織田、西の毛利との狭間にあり、存亡の瀬戸際。生き残るにはいずれかと同盟するほかない。が、主人の政職は決断できぬ暗愚の将。城代にあった官兵衛は、武田勝頼を破って昇竜の勢いにある信長に賭け、臣従した。優柔不断の政職は、後に信長に背き、誅殺される。

 戦国の混沌にあっては、大事に臨んでの逡巡(しゅんじゅん)、決断の遅速は生死を分ける。その緊張に耐えた者だけが生き延びられる。「お釈迦様の蜘蛛の糸」は、多くない。

天正5年(1577年)、信長の命で秀吉の与力となった官兵衛は、中国攻略に従う。作用城、上月城、鳥取城、三木城、備中高松城(岡山)攻め。この頃から秀吉の戦いぶりは、武力にまかせた殲滅戦(せんめつせん)から謀略(心理)戦の多用に変化する。自軍の損傷を最小限にとどめ最大の戦利を得るためだ。三木の干(ひ)殺し、鳥取の渇(かつ)え殺し、といわれた兵糧攻め、備中高松城の水攻め。いずれも官兵衛の建策による。

そして、天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変。信長の横死(おうし)を知って動揺する秀吉に官兵衛はこうささやいた。「君が御運、開かせたもうべき始めぞ。よく為させたまえ」。信長の弔い合戦を大義に謀叛人明智光秀を討ち、天下人への道を開く好機だ、というのだ。秀吉は官兵衛の意を瞬時に理解した。中国大返し、山崎合戦、清州会議、賤ケ岳合戦を勝ち抜き、一気に天下人に駆け上がる。天正15年、官兵衛は軍奉行として九州を平定し天下統一の仕上げとした。軍師の面目躍如である。

しかし、秀吉が官兵衛に与えた恩賞は豊前国八郡のうち六郡、わずか12万石。小早川隆景に与えた52万石に比べ、何故の冷遇なのか。

秀吉は官兵衛の才智を怖れた。戦略構想、作戦企画、戦術指揮、軍兵の統制、それら力量に驚嘆しながら、同時に猜疑と警戒の念が芽生えたのだ。この男に大国を与えては、いつか自分に牙を剥くかもしれぬ、光秀のように。「世に怖ろしきものは徳川(家康)と黒田である。然れども徳川は温和なる人、黒田の瘡頭(*)は心を許し難きものなり」(名将言行録)であった。

官兵衛も秀吉の小心と猜忌(さいき)を見抜いていた。これ以上、秀吉に近づいては身の危険だ。「我不媚人、不望富貴(我れ人に媚びず、富貴を望まず)」(黒田家譜)。44歳で嫡子長政に家督を譲り、剃髪して「如水」(じょすい)と号した。「身は毀誉褒貶(きよほうへん)の間にありといえども、心は水の如く清し」。出処進退は潔い。

秀吉は天下人となった。しかし参謀として近侍し、二人羽織りの如く背後から秀吉の袖に手を通し、天下獲りの采配を振るったのは黒田官兵衛であった。

将の将たる器を持ちながら、主の心を見抜き、潔く出処進退まで決断する「二人羽織の武将」から学ぶものは、今のBizスタイルにおいても多いのではないだろうか。

  • *瘡頭(かさあたま)秀吉がつけた官兵衛のあだ名。

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