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戦国武将に学ぶBizスタイル

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第15回 「約束を違えぬ武将」 ~上杉謙信(うえすぎ けんしん)~

北条早雲

「志とは士の心と書く。武士の第一義は義である。義とは我を美しくあれの意である。人が美しく生きようとする心が、志である」(池宮彰一郎「義、我を美しく」)。
400年以上も前、自らを毘沙門天の化身になぞらえ、生涯を懸け、まさに「義」を追究した武人がいた。越後の龍・上杉謙信である。

亨禄3年(1530年)生れ、幼名・虎千代。15歳で初陣以来、49歳で没するまで、武田信玄との5度11年にわたる川中島の戦いをはじめ、合戦は70度に及び43勝2敗25分。大敗は一度としてなく、戦国最強の軍神と呼ばれる。

その戦いの本質は「われは毫(ごう)も天下に望みなし。ただ機に臨みて戦うのみ、これわが分なり」であり「依怙(えこ)によって弓矢はとらぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力いたす」であった。

筋目(すじめ)とは道理であり、大義、正義、仁義、信義である。謙信の戦いには領土的野心も私利私欲もない。筋目の正しい、そこに「義」を認めれば誰であれ味方する、というものだった。

行動規範の基(もとい)にある精神性は、7歳から14歳までの仏道修行で醸成された倫理道徳観であろう。この時代、「一子出家すれば九族天に生ず」とされ、一族の菩提を弔うため男子を出家させるのが倣い。越後守護代・長尾為景の末子である謙信も林泉寺に預けられ、僧侶として生涯を全うする宿命であった。しかし天の配剤、毘沙門天の意思だったのか、14歳で還俗(げんぞく)し「我を美しくあれ」という義戦の場に立つことになる。

関東管領職に就いたのが32歳。関東平定を大義に出兵は14度、うち陣中での越年は7度を数えた。北条氏康、武田信玄との闘争に明け暮れる日々は、死と隣り合わせの緊張の連続であったろう。

謙信の「義」とは、天皇(朝廷)を頂点に、将軍(幕府)に忠誠を尽くし、中世的秩序のもとに国家の安泰を願うことだ。仏法を守護する武神を毘沙門天という。謙信は中世の静謐(せいひつ)を希求し、王城を守護する己れを毘沙門天に仮託して「毘」を戦旗とした。この謙信の正義に真っ向から対峙したのが織田信長。中世的価値観を徹底破壊し、武力により近世的秩序を打ち立てようとする下剋上、天下布武の思想である。

相克(そうこく)はいずれ激突する。謙信は信長との最終決戦を決意し、京上洛の軍令を発するものの天正6年3月、春日山城内で急逝。信長に対し軍事で圧倒しながら、天の時、地の利が及ばなかった。ただ、その4年後、天下統一を目前にしながら信長が斃(たお)れる。謙信と同じ享年49歳。有為転変(ういてんぺん)、戦国乱世の非情というべきか。

理非を正すこと人に厳しく、己れにはそれ以上の厳しさを課す。謙信の生きざまは、潔癖さにおいて悟道(ごどう)の生涯であった。宿敵信玄は「謙信は義者であり、頼られれば己の骨を散りばめても約束を違えぬ武将」と称え、「自分の死後は一筋に謙信を頼れ」と遺言したという。

戦国最強の軍神と呼ばれ、そこに「義」を認めれば誰であれ味方し、宿敵信玄からも信頼された上杉謙信。この「約束を違えぬ武将」から学ぶものは、今のBizスタイルにおいても多いのではないだろうか。

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