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第12回 「愛の武将」 ~直江兼続(なおえかねつぐ)~

直江兼続

直江兼続の兜の前立(まえだて)は「愛」の一文字である。軍神・愛染明王(あいぜんみょうおう)の象徴であり、愛民仁愛(あいみんじんあい)の表象だ。兼続は武人家として昂然(こうぜん)と起ち、また民生家として黙々と生きた。そのたたずまいに男の品格を見る。

上杉謙信の言葉に「大将たる者は仁義礼智信の五を規とし、慈愛をもって衆人を憐れみ…」とある。五規すなわち五常の徳。兼続は6歳で謙信の養子・景勝の近習に就いて以来、己の生の軸を「五常の徳」と定め、終生、上杉家への忠節を貫いた。

京都妙心寺の高僧は兼続を指して「利を見て義を聞かざる世の中に、利を捨て義を見る人」(*)と評した。慶長3年(1598年)、豊臣秀吉は上杉景勝を越後91万石から会津120万石に加増転封し、うち米沢30万石を兼続に与えた。執政(家老)の身で異例の厚遇だ。秀吉がいかに兼続の実力を高く評価していたかがわかる。

その兼続が「利を見て義を聞かざる」の傲慢に憤然と起ったのが、徳川家康に対する「直江状」である。

秀吉の死後、天下人への野望を露わにした徳川家康は慶長5年、「上杉景勝に謀叛の疑いあり」として15条におよぶ詰問状を送った。

「直江状」はそれに対する返書だ。兼続は毅然として「根拠のない噂をもとに主(景勝)を謀叛人扱いするのは、内府様(家康)にこそ他意があるからではないか。上杉家を疑うなら一戦も辞さぬ」と突っぱねた。反論、弁明というより、弾劾状もしくは果たし状である。

家康は激怒し「豊臣秀頼に対する謀叛」を大義名分に会津征伐の大軍を動かし、結果として「直江状」はその後の関ヶ原合戦の発端になったのである。
兼続は政治家として、家康の狡猾の前で純情に過ぎた。慶長6年(1601年)、景勝とともに家康に謝罪し恭順。領地は会津120万石から米沢30万石に減封。家老としては外交失敗の責を負って切腹すべき立場だ。兼続自身もその決意だったろう。しかし、おそらく景勝の命もあって上杉家再建に生きることが執政の責任と思い定め、兜の前立を愛染明王から愛民仁愛に替えたのである。

家臣に辛苦を強いるなら「隗より始めよ」である。兼続は家禄6万石のうち5万石を他の武将に、5千石を家来にそれぞれ分け与え、一汁一菜の質素倹約を旨とした。6千の家臣は召し放ち(今でいう解雇)せず家族約3万人とともに米沢に移住。以来、家臣は「肥え桶かつぎ」と揶揄されながらも兼続を信じて上杉家再建に献身した。

兼続の指揮は、治水(直江石堤)、換金作物(青苧、紅花、漆)の栽培、軍備増強(鉄砲製造)、学問の奨励と多岐にわたり、農業指導書「四季農戒書」も著している。

米沢は約10年かけて城下町の形を整え、石高は実収50万石まで復興。民生家として高い資質を示した兼続の為政は、のちに米沢藩中興の祖・上杉鷹山の藩政改革に活かされる。

義のためには時の権力者へも毅然と対応した、直江兼続。
切腹に値する大失敗を越えて、お家再建に献身した「愛の武将」から学ぶものは、今のBizスタイルにおいても多いのではないだろうか。

*
誰もが欲得を追い求める世にあって、利益を捨てても信義を守る人物

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