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戦国武将に学ぶBizスタイル

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第10回 「遅れてきた武将」 ~伊達政宗~

伊達政宗

独眼竜、奥州王、鄙(ひな)の華人、武将歌人…。伊達政宗は、光の加減でさまざまな表情を見せる。歴史に「もし…」は、せんないことだが、それでもなお、政宗を戦国乱世の中原(ちゅうげん)に置いたときの「…たら」や「…れば」を想像すると、戦国史は別の様相を帯びてくる。「遅れてきた武将」とも「最後の戦国大名」とも言われる政宗。その登場がせめて10年早ければ、信長、秀吉、家康に伍して天下獲りの主役に列する器量であった。

政宗は1589年(天正17年)、摺上原(すりあげはら)の戦いで奥羽を制し、百万石の戦国大名にのし上がる。このとき、血気盛んな23歳。しかし、天下の形勢はすでに豊臣秀吉のもとに収束し、戦国大名の時代は体制型(サラリーマン型)の近世大名の時代に移ろうとしていた。その狭間(はざま)に登場した政宗は、まさに「遅れてきた武将」だった。

世代間闘争とでもいうべきか、政宗は首の座に三度直っている。
1590年(天正18年)、秀吉(55歳)は惣無事令(そうぶじれい)(*1)の違反(摺上原の戦い)と、小田原・北条攻め参陣の遅れを詰問するため政宗(24歳)を呼びつけた。

その謁見の場に現れた政宗は、髪を水引(みずひき)で結んだ死装束。死罪の覚悟だ。が、政宗には命がけで切り取った奥州の地を他人に差配されることの不満、反発もある。理不尽ではないか。次第によっては、勝てぬまでも刺し違える覚悟、その意思表示でもある。際どいが、己れを大きく見せる自己演出だ。

このときの政宗の態度は「脇差の抜きよう、ご挨拶のふり、誠に悪びれたる気色なく、田舎人なれども、聞き及びたる程の者なり」(政宗記)。田舎者だが、噂にたがわぬ堂々とした男、「鄙の華人」であった。

翌1591年(天正19年)、一揆扇動の疑いで再び召喚されるが、このときも磔(はりつけ)柱を先頭に死装束。さらに1595年(文禄4年)の豊臣秀次事件。政宗は謀反に加担した疑いで詮議されるが、事件は秀次を関白に任じた秀吉の眼鏡違いによって起きたもので、片目の自分が秀次を見損なうのも当たり前だ、と開き直っている。

時代は関ヶ原、大阪の役を経て、すべての大名が武の主張を封印し、徳川家にひれ伏すことになる。
ただ、ひとり政宗だけは戦国独立大名の威風を保ち、政治的な妥協や譲歩をみせても、決して媚びることはなかった。

辞世、

曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く
(闇の中、曇りなく光る月のように、心のままに自分の道を歩んできた、もう悔いることはない。)(*2)

伊達政宗、この背筋の伸びた「最後の戦国大名」の「政治的な妥協や譲歩をみせても、威風を保ち決して媚びることのない」という姿勢は、今のBizスタイルにおいても通用する生き方ではないだろうか。

*1
惣無事令。1585年(天正13年)、豊臣秀吉が天下統一をはかるため、戦国大名の戦い(領土紛争)を禁じた私戦停止令。
*2
「武将の言葉」(角川文庫、火坂雅志編)より

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