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第9回 「日本国の半分を賜るとも(わが決心)ひるがえ難し」 ~真田幸村~

真田幸村

徳川家康は生涯で二度、死の危機に瀕している。一度目は三方が原役の惨敗。二度目は大坂夏の陣。家康を自害の寸前まで迫ったのが真田幸村(信繁)だ。戦国争乱の最終盤に突如として現れ、一瞬の光芒(こうぼう)を放って散った幸村に、武士(おとこ)の意気地と覚悟を見ることができる。

小豪族の真田氏は、群雄割拠の世を生き延びるため、武田、徳川、上杉、豊臣と次々に主家を替え、幸村は人質として20歳で上杉景勝、24歳で豊臣秀吉に勤仕した。多感な青年期、幸村は外交に腐心する父・昌幸に、小国ゆえの悲哀や屈辱を垣間(かいま)見ながら、処世の苦渋を権力や権威に対する反骨精神に屈折していった。

1600年(慶長5年)関ヶ原合戦。兄・信之は徳川方東軍に付き、幸村は父・昌幸とともに豊臣方西軍に加わるが敗退。家康の仕置きで、紀州九度山に蟄居(ちっきょ)。父・昌幸は失意のうちに病死。幸村は34歳からの14年間、貴重な壮年期を無為のうちに過ごす。

転機は1614年(慶長19年)大坂冬の陣。豊臣方に乞われ、九度山を脱出し大坂城に入城。恩義があって豊臣家に与(くみ)したのではない。幸村すでに49歳。乾坤一擲(けんこんいってき)(*1)、家康を相手に一戦を交え、武士(おとこ)らしく生涯を全うする、そう決意したのだ。

大坂城に出城(真田丸)を築き、兵5千をもって冬の陣に臨む。このとき、幸村は旗指物から甲冑、具足に至るまで赤一色の、いわゆる「真田の赤備え」を演出した。西軍は浪人の寄せ集め軍団だ。これを一丸に統率し、人心を一つの目的に向けるため、制服による心理的な高揚効果をねらったのだ。

しかし、いつの時代も、どの団体にも豊臣秀頼のような凡庸な二代目や、大野治長のような現場の苦労を知らぬ重役がいる。そういう指揮官が上位に立つと、組織はまたたく間に崩壊する。献策も退けられた幸村は、西軍の限界と豊臣家の滅亡を確信した。

慶長19年11月26日開戦。真田隊は奮戦するが、12月20日に和議に至る。城の堀は埋められ、真田丸も解体、大坂城はほとんど丸腰にさせられた。

冬の陣での幸村の武勇を知った家康は、信濃一国を恩賞に引き抜きをはかる。確かに豊臣家の行く末に希望はない。が、家康の風下に立つ気もない。

日本国の半分を賜るとも (わが決心)ひるがえ難し

と拒絶。幸村にはもはや保身の欲望も、一国の主への野望もなかった。狙うはただ一つ、家康の首。

明けて1615年(慶長20年)大坂夏の陣、5月7日。真田隊3千は茶臼山に陣取る家康本隊に殺到。家康に自害を覚悟させるまで肉迫するが、三度の乱戦の末に力尽きた。しかし、その最期に悲劇性はない。幸村は49年の生涯を大坂の役のほぼ6か月に凝縮し「真田日本一の兵(つわもの)」(薩摩藩旧記)という鮮烈な残像を戦国史に刻み、現代にまで生き続けている。

*1
乾坤一擲(けんこんいってき) 運命をかけて大勝負をすること

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