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幕末の志士から学ぶ教訓

【第7回】百姓から総理大臣へ。明治の今太閤・伊藤博文

維新三傑亡き後、実質的に日本のリーダーとして憲法発布や国会の設立など、近代的な議会政治を築き上げた初代内閣総理大臣・伊藤博文。今回は、その生涯と人物像に迫ります。

伊藤博文の生涯

初代の内閣総理大臣、そして大日本帝国憲法の創案者として知られる伊藤博文。はやくから吉田松陰に「周旋の才あり」と言われていた通り、維新三傑亡き後の日本を牽引し、近代化へと押し進めた明治の偉人です。

そんな伊藤博文は他の幕末志士とは異なり、周防の貧しい農民の家に生まれました。少年期は貧しい生活を送っていましたが、父が伊藤家に養子入りすると、農民から足軽の身分へと変わりました。また江戸湾警備の任に就くと、桂小五郎(後の木戸孝允)の義兄弟・来原良蔵と知り合い、その紹介で吉田松陰門下に加わります。
吉田松陰の死後は高杉晋作に付き従い、英国公使館焼き討ちや暗殺計画など、過激な攘夷活動に身を投じる一方、海外留学も考えるように。その願いが叶い長州五傑の一員としてイギリス留学を果たし、語学力と海外の知識を身につけました。
帰国後は下関戦争の事後処理に当たったほか、高杉晋作の功山寺挙兵に真っ先に共鳴。クーデターを成し遂げ、以後は武器購入・交渉を主に担当しました。

明治政府では長州閥の一員として、数々の要職を歴任。岩倉使節団として海外視察を終えた後は、大久保利通らとともに明治六年の政変を起こすと、さらに中枢へ。木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通が相次いで亡くなった後は、その後を継ぎ、明治政府のリーダーとなります。
その後は議会の開設を宣言、内閣制度へ移行し初代内閣総理大臣に就任。総理大臣に4度就任し、その間に大日本帝国憲法の発布、日清戦争などで陣頭指揮を行いました。
しかし、韓国統監として韓国を遊説中、安重根により暗殺され、その生涯を閉じました。

エピソードで見る伊藤博文の人物像

明治初期の政治をリードした伊藤博文ですが、その秘訣といえば、吉田松陰が見抜いた通り「周旋の才」=人と協調して事を成し遂げる力にあるのではないでしょうか。

その他の政治家の評も共通して、その組織的な考え方を評価しており、調整能力の高さが伺えます。思えば功山寺挙兵しかり、明治六年・十四年の政変しかり、伊藤博文は人と協調することで地位を高めたほか、憲法や議会の設立も多くの賛同者の力を得て、成し遂げています。
特に憲法考案時には、既に高い身分にありながら、一介の法律学者と称し、メンバーと意見を戦わせることで、憲法を作り上げました。

また、それだけの人を巻き込む力は、調整能力はもちろんのこと、生来の気質にもよるところが大きいでしょう。吉田松陰は伊藤博文を「性質は素直で華美になびかず」とも評し、周囲の人からも「陽気」などと言われていたことから、その明るい性格がのぞかれます。また庶民に対しても非常に気さくで、内閣総理大臣になった後でも、地元の老人と路傍で話し込んだりしていたというエピソードが残っています。こうした気さくさが伊藤の周りに人を集めたのかもしれません。

伊藤博文の成功と失敗から学ぶ教訓

明治初期を代表する大政治家でありながら、素朴で庶民的な人柄が見え隠れする伊藤博文。その人生から学ぶべき教訓とはいったいどのようなものでしょうか。

1:人を見る目と愛嬌さ

伊藤博文は百姓から内閣総理大臣という、まるで豊臣秀吉のように立身出世を成し遂げましたが、その成功は多くの実力者の寵愛によるところがあります。たとえば来原良蔵と出会うことで学問を学び、高杉晋作に従うことで維新の立役者になり、大久保利通・岩倉具視に従うことでその後の政権を任されています。その時々に従うべき人を見極め、その人に愛されることで学び、成長していったのです。

2:協力しあうが馴れ合わず

伊藤博文と山県有朋を対比して、伊藤博文は私党を作らないと言われています。その言葉通り、その時々で必要な人物は重用しますが、その後も贔屓(ひいき)するようなことはありませんでした。あくまで公のために動くことが目的で、自分が権力を握り続けることを良しとはしていなかったのかもしれません。そこは秀吉とは異なっています。

どれだけ優秀な人物であっても、1人で事を成すのは難しいこと。上下の別なく、人に愛され、協力してもらえることはリーダーに必要な素質の一つではないでしょうか。また、そうして握った力を万人のために役立てる公の精神も、伊藤から見習うべきことでしょう。

株式会社ライトアップ監修

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