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幕末の志士から学ぶ教訓

【第5回】変革の種をまいた悲劇の思想家・吉田松陰

桂小五郎(後の木戸孝允)や高杉晋作、伊藤博文など、明治維新を主導した人材を輩出した私塾・松下村塾。その塾長にして思想家が吉田松陰です。今回は、その生涯と人物像に迫ります。

吉田松陰の生涯

いまなお多くの信奉者を引きつける松下村塾。その塾長である吉田松陰は、維新を主導するだけでなく、後の明治政府でも活躍する人材を多く輩出しました。自身がその先頭に立つことは叶いませんでしたが、まさに新時代へ種をまいた人物と言えるでしょう。

吉田松陰は萩城下の杉家の次男として生まれます。5歳になると兵学師範を務めていた吉田家の養子となりますが、叔父となる吉田大助が死去。以降は兵学師範の嫡男として、同じく叔父である玉木文之進の厳しい教育を受けることになります。厳しい教育のおかげもあって、19歳という若さで吉田松陰は長州藩の藩校・明倫館で教べんをとることになるのでした。
青年期になると九州・長崎、江戸など諸国を遊学、江戸では師となる佐久間象山と出会ったほか、黒船の来航を目撃します。海外の脅威に触れた吉田松陰は憂国の想いを強くしていき、ついには外国船への密航未遂事件を引き起こしてしまうのでした。

その結果、吉田松陰は萩の野山獄に投じられ、その後実家の杉家で叔父から松下村塾を引き継ぎ、主宰します。そこで高杉晋作などの後の維新の立役者が集まり、彼らに大きな影響を与えました。しかし、日米修好通商条約が強引に締結されると、再び激しい想いが去来。塾生たちに対しても過激な発言が増え、ついには老中暗殺計画まで持ち上げ、塾生の決起を促します。
しかし、計画が露見したことで藩や塾生からもたしなめられ、失意の中に沈んでしまうことに。その後、安政の大獄で別の嫌疑の取り調べ中に老中暗殺などの過激な計画が露見、斬首となってしまうのでした。

エピソードで見る吉田松陰の人物像

新時代のリーダーを育て上げた、優秀な教育者。それが現代における吉田松陰のイメージです。

しかし、リーダーを育て上げた教育方法は、それまで行ってきた狂気的とも言える激しい活動から生み出されていることも無視できません。
吉田松陰という名は号ですが、もう一つ、「二十一回猛士」という号も持っています。これは生涯で二十一回に及ぶ暴挙に出たことを表すのだとか。その号の通り、吉田松陰は攘夷の想いのままに過激な行動を幾度となく行ってきました。こうした止められない熱い想いが松下村塾での指導へと還元されているのです。

もちろん、教育者としても優秀で、型にはまった講義ではなく、世界情勢を考え塾生同士で討論させる、という授業を主流としていました。こうした自由なスタイルが高杉晋作などの優秀な人材を育てたのです。また、久坂玄瑞と高杉晋作を競わせるなど、人心の扱いにも長けていたところが、その教育方針から見て取ることができます。

吉田松陰の成功と失敗から学ぶ教訓

革命家としての激しい思想と、教育者としての優れた求心力。2つの顔をのぞかせる吉田松陰。その人生から学ぶべき教訓とは一体どのようなものでしょうか。

1:人を導くのは“熱い想い”

現代において、教育者として落ち着いたイメージを持たれがちな吉田松陰ですが、その本質は「二十一回猛士」という号のほうがしっくり来るような気がします。自身が止められないほどの熱い想いがあるからこそ、人を引きつけ、人が育つのかもしれません。その想いは松陰自身の次の句によく現れています。

「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」

2:激情は身を滅ぼすことも

最終的には過激な思想が実行へと移ったことで処刑されてしまった吉田松陰。その熱すぎる想いに身を焼かれてしまったとも言えるでしょう。実際になにかを実行するとしたら、熱い想いだけでは不十分。それに対応する冷静さも必要不可欠です。

熱い想いがなければ、人の気持ちは動かせませんし、なにかを変えることもできません。一方で、激情はときに活動を荒々しくしてしまうもの。成し遂げたいものがあるときほど、激情を胸の中に抑える努力が必要でしょう。

株式会社ライトアップ監修

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