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幕末の志士から学ぶ教訓

【第4回】聡明な最後の将軍・徳川慶喜

徳川幕府最後の将軍として大政奉還を受け入れた、類まれな政治力を持つ男、徳川慶喜。今回は、その生涯と人物像に迫ります。

徳川慶喜の生涯

鳥羽伏見の戦いでの早々の退却や、将軍職を退き、天皇に権力を返還する大政奉還を受け入れたことにより、「腰抜け」などと、なにかと批判を集めやすい徳川慶喜。しかし、慶喜がそれを受け入れたからこそ、スムーズな政権移譲が実現できたとも言えます。実は徳川慶喜は優れた政治判断ができる能力を持った、最後の将軍にふさわしい人物だったのです。

徳川慶喜は徳川御三家の一つである水戸藩の藩主、徳川斉昭の七男として生まれます。幼少時から非常に優れた才能を発揮しており、一部では神君・徳川家康の再来ともてはやされるほどだったとか。そんな才能を見抜いてか、慶喜は御三卿の一つである一橋家の後継ぎとして養子に出されることになるのでした。
13代将軍家定の時代になると、将軍継嗣問題が発生。聡明な徳川慶喜は次期将軍として、島津斉彬公などの後押しを受けて、表舞台へと登場することになります。しかし、このときは後ろ盾となる諸侯が相次いで死去したことで、14代将軍は家茂に決まります。

その後、後継問題で争った井伊直弼が倒れると、再び表舞台へ。慶喜は政治闘争を繰り広げ、政権を掌握。さまざまな改革を行います。しかし、薩長が武力倒幕に動くことを予期した慶喜は、大政奉還を受け入れることで倒幕を回避し、リーダーシップを維持しようと図ります。しかし、薩長の動きを封じ込められず、戊辰戦争へとつながっていきます。

エピソードで見る徳川慶喜の人物像

鳥羽伏見の戦いでの逃走や、大政奉還など、マイナスな面に目が行きがちな徳川慶喜。最終的な倒幕は避けられなかったものの、一時は薩長を相手に一歩も引かない政治的手腕を見せつけています。

大政奉還も、武力倒幕を望む薩長をかわすための手段でしかありませんでした。これは、徳川慶喜が時代の流れや当時のパワーバランスなどを深く捉えていたことの証左にほかなりません。攘夷論が声高に叫ばれる幕府内にあって、早々にフランスと協力姿勢を見せ、留学を推進したり、徳川家を中心とした近代的な政治体制の青写真も描いています。

しかしながら、自身の考えを周囲に伝えるのが苦手なのか、慶喜は敵を多く作ってしまう面も。鳥羽伏見の戦いも、逃走したのではなく、策がありその場を去った…という意図が読めていれば高度な政治判断だと思えます。しかし伝わっていなければただの臆病者に見えてしまい、この一件で慶喜は幕府内部からも批判にさらされることに。聡明な自分を基準に物事を考えてしまったのかもしれません。

徳川慶喜の成功と失敗から学ぶ教訓

少々独善的な面もありながらも、高度な政治判断で結果的には国力の低下を抑えつつ、改革に寄与した徳川慶喜。その人生から学ぶべき教訓とは一体どのようなものでしょうか。

1:これまでの積み重ねを捨てる覚悟

約270年間続いてきた徳川幕府の歴史を背負いながらも、それを躊躇なく捨てる大政奉還を受け入れることは、たとえその後の目論見があったにせよ、なかなかできることではありません。私たちもついこれまでの慣例に頼ってしまうときがありますが、なにかを変えるときにはこうした大きな変化を受け入れる覚悟が必要不可欠なのではないでしょうか。

2:周囲を置いてけぼりにしない

特に優秀な人にありがちですが、「自分がこう思っているから相手もわかっているはず…」という自分基準の考え方は危険です。どれだけ自分の判断に自信があっても1人では事をなすことはできません。周囲と積極的にコミュニケーションを取り、自分の考えを伝えることが、時間がかかっても結果的に良い結果に導くでしょう。

学者や芸術家などのように、なにかをひたむきに極める仕事であれば、慶喜のような態度でも良いかもしれません。しかし、人を率いる以上はコミュニケーションは必須。その優秀な知識を仲間に共有できれば、もっと大きな仕事を成し遂げることができるでしょう。

株式会社ライトアップ監修

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